神戸・篠原の乾家 善立寺からの全情報と戸籍

神戸市灘区大石北町にある善立寺(ぜんりゅうじ)からいただいた乾家の全情報(2017年12月15日まで)。

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神戸の篠原・乾家は、石山の合戦(1570年~1580年)のとき、織田信長の軍勢から石山本願寺(当時の法主は顕如上人)を守った紀州雑賀衆に属する鉄砲衆。

過去帳の写真も送っていただいた。

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代々、乾與兵衛を名乗り、篠原(現在の灘区篠原本町)に住んでいた。

一番古い與兵衛の記録
天保15(1845)年
一力は屋号だろう。
妻ナヲを46歳で失くす。
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再婚したのだろうか?

同年
孫を失くす。
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この孫の父親、與兵衛の息子の名は不明。

嘉永5(1852)年
母を失くす。
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安政3(1856)年
娘を3歳で失くす。
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この娘の母親は、天保15(1845)年他界の妻ナヲではない。乾とら(村上瀧蔵長女)[天保元(1830)年2月10日生まれで、明治42(1909)年7月5日他界]と再婚し、その間に生まれた娘だろう。

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文久4(1864)年
古父を72歳で失くす。
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この古(故?)父の名も與兵衛だろう。寛政4(1792)年生まれか?

明治3(1870)年
倅を4歳で失くす。
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明治4(1871)年
娘スエを4歳で失くす。
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明治6(1873)年
倅政太郎を16歳で失くす。安政5(1858年)生まれか? 市太郎の弟か?
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明治32年(1899)年
乾與兵衛本人が76歳で死亡。
神戸市灘区役所の戸籍によれば、文政10(1827年)7月24日生まれ。年齢のつじつまが合わないが、どこかで錯誤が起きたか?
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この乾與兵衛の長男が、わが曾祖父乾市太郎。神戸市灘区役所にある戸籍によると、嘉永6(1853)年12月9日生まれ(米国からペリーが浦賀に来航した年)。

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神戸市灘区役所の戸籍によれば、乾與兵衛の後妻で市太郎の母と見られる、

乾とら(村上瀧蔵長女)

は、天保元(1830)年2月10日生まれで、明治42(1909)年7月5日他界。「戸籍編製以前ニ付入籍年月不詳」と戸籍に記載。満79歳の人生。

わが曾祖父、乾市太郎
嘉永6(1853)年12月9日神戸生まれ~昭和4(1929年)10月20日大阪没(大阪・千日前で交通事故に遭い、三男寅之助の大阪市の自宅で死亡)。満75歳で他界。

については、下記記事参照。

曾祖父乾市太郎の名刺4枚
https://banyaarchives.seesaa.net/article/201602article_4.html

曾祖父乾市太郎の明治天皇についての書付
https://banyaarchives.seesaa.net/article/201602article_6.html

市太郎には下記の弟がいた。

乾仙太郎 慶應元(1865)年1月12日生まれ
乾岩太郎 明治7(1874)年8月6日生まれ

  先祖に太郎がいっぱい坂道の港  夏石番矢


参照
わが先祖探し(1) 善立寺
https://banyaarchives.seesaa.net/article/201711article_23.html

わが先祖探し(2) 善立寺と乾家
https://banyaarchives.seesaa.net/article/201711article_25.html

わが先祖探し(3) 都賀川
https://banyaarchives.seesaa.net/article/201711article_27.html

わが先祖探し(4) またいとこと墓参
https://banyaarchives.seesaa.net/article/201711article_28.html

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