1964(昭和39)年秋の東京オリンピック開催時、私は兵庫県相生市菅原町の生家に住んでいた。この生家からさらに高台に父が建てた家に移転するとは予想もしなかった。
相生 生家の記憶(1)
https://banyaarchives.seesaa.net/article/200612article_17.html
相生 生家の記憶(2)
https://banyaarchives.seesaa.net/article/200612article_18.html
相生 生家の記憶(3)
https://banyaarchives.seesaa.net/article/200612article_19.html
相生 生家の記憶(4)
https://banyaarchives.seesaa.net/article/200612article_20.html
この生家は1988年、昼の火事で焼失。それを南浦和のマンションで私は母からの電話で聞く。
話を戻すと、1964年の東京オリンピックの本部は、帝国ホテルに置かれたことを、最近知った。いまの味気ない建物ではなく、ロイド設計の建築。
帝国ホテル1階の展示コーナーに飾られた品々。
このオリンピック当時、私は相生市立双葉小学校2年生だった。
組担任の山口繁先生と小学校玄関前で
山口繁先生は、「げんこつ先生」と仇名され、げんこつを生徒の頭に与えるという体罰が特徴だったが、、生徒から愛されていた。
先生のげんこつ暖かかった木の校舎 夏石番矢
この年にもらった何枚かの表彰状の1枚。版画に対しての賞状。
どういう版画だったか記憶にないが、一心不乱に彫刻刀で木の板を彫った。
人は食べ人は走り人は泣き人は彫る 夏石番矢
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