関蝉丸神社の闇

7月に訪れた滋賀県大津市のいくつかの神社について、メモを書いておきたい。

2014年7月20日(日)、浜大津に近い宿泊先のホテルから太い坂道を登ると、関蝉丸神社(下社)にたどり着く。






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鳥居が見える前、坂道脇に立つ「音曲芸術祖神」の石碑に、すでに妖気のようなものが漂う。

京阪電鉄京津線の2本のレールを渡ると、鳥居が待ち構える。

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境内は広くないが、ほとんど木陰になっていて、心象としてどっしりと暗さが残る神社。

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拝殿の手前に、舞台がある。「音曲芸術」の神様らしい。しかし、とにかく暗く、すさんでいる。

拝殿は、小さいながら、回廊。

拝殿前の左には、謡曲「蝉丸」とこの神社の関係を説明する木の札が立つ。

謡曲では、蝉丸は醍醐天皇第四皇子。嬰児のころから両目が見えず、剃髪の上、逢坂山に捨てられたとされる。

これが史実かどうかはわからない。

「蝉丸」という名が、「猿丸」という歌人の名とくらべれば、異形で、なおかつ音曲のたくみな伝説の人物にふさわしく思える。

この境内には、「関の清水」と呼ばれる泉がある。

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逢坂の関近くにある湧き水ということだろう。こちらのほうが神社より古いのではないだろうか? 蝉丸が実在したかどうかは不明ながら、実在したなら、飲み水に困らないよう、泉のそばに捨てたのだろうか?

暗い泉は、フランスのブルターニュでもたくさん見た。花崗岩で泉を囲うのも同じ。この共通性は何だろう?

それはさておき、京都に都があるころ、交通量の多い泉のそばで、琵琶のたくみな異形の人間がかつていた。通行人の施しによって生計を立てていた可能性が高い。それが「蝉丸」伝説となったのだろうか?

  闇が湧く泉へ落ちる蝉の一生

  盲目の皇子を泉へ捨てにゆく  夏石番矢

この記事へのコメント

  • Tsuji-Boston

    母校で松尾先生が百人一首にある蝉丸の歌を紹介されていました。歌は失念しましたが、先生は「逢うも別るるも逢坂の関」という言葉があるとおっしゃり、都人が東国に行く時は逢坂の関まで見送りに行き、帰って来る時は逢坂の関迄迎えに行った、と説明されていました。今でいう「京都駅」でしょうか。今も昔も音曲を奏でて施しを貰う為には人の往来が激しい場所が適していたのでしょう。
    2014年09月04日 07:53

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