9月12日は、1967年に亡くなった祖父乾源蔵の命日。
葬儀怪異譚
https://banyaarchives.seesaa.net/article/200908article_42.html
このところ、妻の助けを借りて、除籍謄本、戸籍謄本、住民票などを取り寄せたり、郷里相生の遺骨を、乾家本来のの地、神戸の墓にまとめたり、実家からの写真を整理したりして、家族の過去を振り返ったりすることが多かった。
祖父の遺骨も、この夏、8月20日に約35年ぶりで、神戸の墓で目にした。
祖父については、実はあまり詳しいことは知らない。
妻のせいを亡くして、息子(私の父)を育てなかったとか、神戸で会社を経営していて、うまくゆかなかったとか、羽織袴で賭場へ人力車へ連れてゆかれて騙されたとか、第二次世界大戦中奈良に逃げていたとか、メロンパンが好きだったとか、手帳にメモをこまめに書き留めていたとか、最晩年も大衆小説を読んでいたとか、腰が曲がりながらも亡くなる間際まで健康だったとか、小さい子どもが好きだったとか、断片的なことしか知らない。
乾家の神戸の財産は、この祖父の代でほとんど消えた。性格は穏やかだったようで、怒った祖父を見たことがない。神戸から相生に来るときは、おみやげに、小さい蛸壺入りの桜花の塩漬け、瓦せんべい、バナナ、神戸肉の缶詰を持参していた。
ただ、天皇(明治天皇?)神戸巡行のとき、地元の名士として謁見した祖父の父(わが曽祖父)乾市太郎にくらべて、うだつの上がらない人だったようだ。曽祖父は、シンガーミシンの販売店を2つ神戸で経営していた。神戸新聞の集金係もやっていた。神戸新聞社本社があった雲井通に家や土地を所有していた。
この曽祖父の骨壺を、やはり8月20日に実物をはじめて見た。ふたに釉薬が三ツ星のようにかかり、大きくもなく、洒脱な焼き物だった。この骨壺からも、曽祖父はただ者ではないことがわかる。いい焼き物だから、骨壺を持ち帰るわけにもいかず、御影石材店に処分してもらった。
曽祖父の骨壺とわが頬の三ツ星瞬時の出会い 夏石番矢
これらのさまざまなことは、何もなかったようにいまは、神戸市灘区の篠原墓地で、わが一族6体の遺骨は、ひとしく土に帰ろうとしてしている。そういう儀式を、この8月20日に行ったということが、遠い日の出来事のような気がしている。
神戸の篠原墓地での儀式と作業
https://banyaarchives.seesaa.net/article/201208article_17.html
考えてみて不思議なのは、相生市の実家で息を引き取ったのは、1964年にこの鉄筋コンクリートの家を苦労して建てた父母ではなく、よそ者として最晩年の数年を過ごしに身を寄せた祖父だけだったこと。
父母の葬儀は別の斎場で行なわれたのに対して、実家で葬儀を行なったのは、この祖父の他界のときだけだった。
金属の羽音の下で故郷を失なう 夏石番矢
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またいとこからのメール 曾祖父乾市太郎について
Excerpt: 大阪・八尾市在住のS・Sさんという女性から画像添付のあるメールが届く。曾祖父に乾市太郎をもつまたいとこにあたる人だとわかる。
Weblog: Ban'ya
Tracked: 2016-02-01 13:04
曾祖父乾市太郎の名刺4枚
Excerpt: 曾祖父乾市太郎の名刺が4枚。
Weblog: Ban'ya
Tracked: 2016-02-03 21:45
曾祖父乾市太郎の明治天皇についての書付
Excerpt: 曾祖父乾市太郎が残した、明治天皇についての自筆墨書書付の画像。「御拝謁」との書き出し。大正初めに書かれたメモだろう。八尾市在住のまたいとこ、S・Sさん所蔵。
Weblog: Ban'ya
Tracked: 2016-02-04 23:20
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