命主社
http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/simane/izumosi/inotinusi/inotinusi.html
http://www.genbu.net/data/izumo/inotinusi_title.htm
私は、この神社の名前にいたく感動した。「命の主」の神社、生命の根源の神様の社。「主」ということばも重い。
この神名を、別の神社でも見かけ、メモしている。
当時の地名で、斐川町神氷字氷室の、
曾枳能夜神社
http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/simane/hikawagun/sokinoya/sokinoya.html
である。この神社は、眠りこけたような穏やかな雰囲気に包まれていた、この神社の境内の石には、祭神ではない、
神魂伊能知奴志命
と彫ってあったのである。出雲大社の摂社命主社への遥拝所らしい。はじめての出雲で、二度も「命主」に遭遇した。ちょうど、8月3日に娘が生まれたばかり。命の大切さを噛み締めていたころ。
ところで、この命主は、『古事記』では、神産巣日として、天之御中主の次の次、最初から三番目に登場する。だが、名前は命主ではない。神産巣日である。これも、生命の根源神を指す神であるとわかるが、
いのちぬし
の単純さや重さには、とてもかなわない。
『古事記』で神産巣日は、一度焼死した大国主を蘇生させる、命の根源神らしい働きをする。二番目に登場する高御産巣日と対にするため、このように名前を変えられてしまった神ではないだろうか? 元来は、スサノオや大国主よりも、もっと古く根源的な神、全生命の母としての神だったと思われる(性別は不詳。性別はなかったかもしれない)。
名前を変えられ、天神系の神とペアで、『古事記』冒頭に登場させられている。
『古事記』のはじめに、出雲万神殿に対する政治的介入を、読みとれたように思う。
それでも、出雲では、「命」ということばの古さと重みを再発見した。そこで生まれた俳句。
命ひしめく雲のやちまた涼しけれ 夏石番矢
句集『楽浪』(書肆山田、1992年)
参照
『古事記』ノート(10) 天之御中主ふたたび
https://banyaarchives.seesaa.net/article/200911article_22.html
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山陰歴史ファン