心理学者の河合隼雄は、『中空構造日本の深層』(中央公論社、1982年)で、この中心を占める神が何もしないので、そこから日本の「中空性」や「中空構造」を発想している。
この主張に説得力もあるようだが、フランスのロラン・バルト(Roland Barthes) の指摘した「空虚な中心」(centre vide) (L'EMPIRE DES SIGNES, 1970)の、言い換えに近い気もする。戦後日本を訪れたバルトが、東京の都市構造、たとえば駅には、中心がなく、人々が通過する空虚な空間だけがあるととらえた考え方。
この問題は、とても大きな問題。
天之御中主神を祀る神社は、江戸以降のものが多く、妙見信仰と結びついたり、平田篤胤の国学の観点から、重要視されたともされている。この平田篤胤による天之御中主神の重視は、一神教であるキリスト教の影響とも考えられている。
『古事記』は、寄せ集めの神話。その寄せ集めのつなぎ目の不自然さが、目立つこともあるし、つなぎ方が今日理解できない箇所もある。
最初に登場する神が、作られたものなのだろうか。いや、そうではなくて、あまりに重要で、秘され続けた神なのだろうか。
日本の神社には、名前を秘された神が祀られていることがある。大切な神の名前を一般にあかさないのかもしれない。伊勢で「不詳一座」と祭神を記した神社を知った。
「御中」は、こう漢字で書くと、ただ「中心」を指しているようで、天地の中心、あるいは天地の中間を指すのかもしれない。
だが、「御中」(みなか)を「水中」(みなか)と取ると、まったく違う世界が開ける。原初の水を指す神になるのである。
この世のはじめに、途方もなく大きな水があったとする神話は、世界のあちこちにある。
『古事記』は、冒頭から謎めいている。「中心」もしくは「中間」と「水」が、この書物の出発点だろうか?
一つだけ空想を述べると、秘すべき中心の神、しかも原初の水の神は、どこかユダヤ教や旧約聖書などに近い。これはさらに、古代メソポタミアにつながる。数千年ではすまない人類知が、『古事記』から断片的に見えてきた。
始まらず終わらず水の神まんなか 夏石番矢
この記事へのコメント
ザッコ
Fujimi
水夫清
この世のはじまりは泥の海、という説も。
Fujimi