2006年の年末から2007年の年始にかけて、葛飾北斎の木版画を楽しんでいる。
ゴッホやゴーギャンが、北斎の影響を受けていることから、北斎の木版画を鑑賞しなおしている。北斎は、子どもにもわかりやすいけれども、奥は結構深い画家だ。
たぶん、セザンヌも明言しないながら、北斎から何がしかを盗んでいるだろう。
ゴーギャンとゴッホ
https://banyaarchives.seesaa.net/article/200612article_8.html
アルル(1) 黄色い夢
https://banyaarchives.seesaa.net/article/200612article_9.html
いつだったか、まだ東武美術館がまだあったころ、北斎展に行ったが、迫力というか、下品なエネルギーというか、いささかげんなりした体験がある。たいていの展覧会のカタログを私は購入するが、北斎展のものは残っていなかった。
19世紀の後半に、北斎の木版画は、ゴッホやゴーギャン以外にも、クールベ、ドガ、モネ、ホイスラー、ピカソなどの西洋画家、ロダンなどの彫刻家、ドビュッシーなどの音楽家に、影響と衝撃を与えた。とりわけ、「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」は、何度見てもすばらしい。20世紀のディズニー・アニメの波、21世紀の現代日本の漫画の波にまで、この版画の余波はうかがえる。
2004年の年末に、スマトラ島沖地震が起きたとき、ポルトガルの詩人カジミーロ・ド・ブリトーは、この木版画が、Tsunami (津波)を描いているのではないかとメールしてきたが、そうではないと答えた。Tsunamiならば、富士山へ押し寄せるように描かれるはず。私には、そういう思い出も付随する名作。
この絵に登場する線は、ほとんどが円弧。大小さまざまな円弧が、リズミカルに変幻自在に結び付き、ダイナミックな画面を構成している。
三角形は、富士山と手前の波。両者は、ほとんど相似形。このアイロニー。
また、円は、波しぶきと船に乗っている人間の頭。この類似も、アイロニカルだ。人間の頭は、生きていながらすでに骸骨になっているかのようだ。さらに高度なアイロニーがにじみあふれ出てくる。
これらの何重ものアイロニーには、ペシミズムに沈まない明るさがあり、百歳まで生きて画業を極めようとした北斎らしい。
富士と大浪の強烈な対比に見られる、誇張し、平面化した遠近法は、西洋の間接的影響だろうが、俳句の大胆な取り合わせに近い。日本文化で国際的に通用するのは、この種の単純化と大胆さ、意外なものの組み合わせである。
富士は波に呑まれてある夜龍を吐く 夏石番矢
北斎没年の1849年作「富士越龍」にも、富士山と龍の大胆な取り合わせが見られる。この絵も大好きな作品だ。
参照 北斎館
http://www.book-navi.com/hokusai/hokusai.html
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北斎の超越力
Excerpt: 11月9日(金)午前、大学に出講する前に、松涛美術館の、
Weblog: Ban'ya
Tracked: 2007-11-09 20:41
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風花
Fujimi
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