ナイジェリア大使の田中映男さんに、日本時間の24日夜に「ナイジェリア通信その9」の催促をすると、早速25日の朝にメールで届いた。ナイジェリアの首都アブジャ近郊のインターナショナル・スクールが開催した運動会についての愉快なエッセイだった。
鎌倉佐弓は、入稿と今後の打ち合わのため、25日の昼ごろに京王線明大前の七月堂まで出向き、夕方帰宅した。これから年内に初校の校正をすませる予定。
「吟遊」第33号には、このブログに書いた八木三日女関係の記事4本をまとめて1本とし、それに手を加えて、評論「八木三日女覚え書」として発表する。この評論になる記事を書きながら、自分自身の俳句遍歴を冷静に見つめ直せることができた。これもブログのおかげだろう。
高度な抒情 八木三日女の処女句集『紅茸』
https://banyaarchives.seesaa.net/article/200612article_11.html
イメージの実験 八木三日女の第2句集『赤い地図』
https://banyaarchives.seesaa.net/article/200612article_12.html
知的情念 八木三日女の第3句集『落葉期』
https://banyaarchives.seesaa.net/article/200612article_14.html
「あの姫」と「あの脳」 八木三日女俳句の本歌取り
https://banyaarchives.seesaa.net/article/200612article_15.html
また、さる9月に、第9回オフリッド・ぺン会議出席のため訪れたマケドニア滞在中に生まれた俳句「埃の翼、マケドニア」16句を、日本語に英訳とマケドニア語訳を付けて発表する。
その1句。
あきらめと希望したたる金の葡萄
Resignation
and hope dropping down
from golden grapes
Pomirenost
i nadez kapat
od zlatno grozje
これらは、マケドニア語訳してくれたアレクサンダル・プロコピエフによると、マケドニアの雑誌にすでに掲載されたとのこと。
小国マケドニアの国土は荒涼としていたが、人間的な暖かさと健全さがあった。そこでは、文学や詩がとても大切にされていた。
私が海外の会議や詩祭に積極的に参加するのは、副産物として、思いがけない俳句のインスピレーションが与えられ、現地の友人にその俳句の翻訳を作ってもらえれば、私自身の句作の進展がはかられるとともに、古典ではない、現代の俳句創作を多くの国にアピールし、普及することにつながるからである。
また、文学や詩歌を消耗品にしている日本をしばし逃れて、バランスを取り戻すためでもある。
このバランス回復よりさらに大きな目的があるとしたら、人類の営みを知り、人類について考えるためである。私の俳句は、かつては日本とは何かをテーマとしていたが、現在は、人類とは何か、人類の存在意義とは何かになった。殺しあったり、征服したり、破壊したり、人類は愚かだとも言えるが、なぜ愚行をしながら存在するのかという問いには、誰も答えていない。
世界各地の古代遺跡に立つと、芭蕉の句の「夢の跡」という感慨よりも、もっと根源的な問いかけが湧いてくる。
芭蕉の「古池」の句の「蛙」が、池に飛び込まなかったなどと、芭蕉の成果の低レベルな部分をつかまえ、無知な屁理屈をこねたK・Hなんて、私のライバルなどとも思わない。彼は歴史に残らない藁人形だ。藁人形によって、日本の俳句はますます形骸化してゆくだろう。
「吟遊」第33号には、このほかに、私の2006年の海外出版2冊の英文書評も、許しを得て、NEW HOPE INTER-NATIONAL REVIEWという英国の書評ウェブサイトから転載する。
BAN'YA NATSUISHI: RIGHT EYE IN TWILIGHT
BAN'YA NATSUISHI: THE EMBRACE OF PLANETS
http://www.geraldengland.co.uk/revs/bs209.htm
鈴木伸一同人 (http://homepage2.nifty.com/karakkaze/) による夏石番矢句集『地球巡礼』論が、まだ完成していないようだが、まもなく入稿されるだろう。
なぜかは知らないが、会友投句欄「吟遊俳句ギャラリー」の敷居が高いらしい。ブログで駄句を頻繁にアップしている人に、助言したい気もするが、人の楽しみを奪う権利は私にはない。
今年は私も、8月から新聞購読を止め、10月からブログを始めたことに象徴されるように、インターネットでの情報発信がさらに強まり、活字の求心力が低下した。活字と言えば、本屋にはほとんど行かず、行っても新刊を買わず、インターネットで、もっぱら洋書や日本の古書を購入した。
それでも、活字は媒体として必要だ。本当に必要な情報は、活字でゆっくり読みたいし、活字で残さなければならない。
インターネットは、停電、天変地異、エネルギー危機が起きれば、すぐに使えなくなる脆さをかかえている。
「吟遊」第33号の編集後記のしめくくりに、こう私は書いた。
2006年、これまで日本人があると信じてきたものが、明確に壊れた。それが何なのか、いずれ後世に命名されるだろう。むろん、他方で、芽生え、成長するものもある。
この記事へのコメント
Fujimi
鈴木さん、ありがとうございました。今年も、もうわずかです。
風花
お二人の意気込みが伝わってきました。
「吟遊」第33号を楽しみにしています。