八木三日女
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大正13年(1924年)7月6日生まれの八木三日女は、2006年12月現在82歳。彼女の業績に対して、それほど正当な評価がされていないのは、まことに残念だ。
これを機会に、句集を再読することにした。
その前に、私と八木三日女の出会いについて触れておこう。
まず最初に、東大学生俳句会に、彼女の長男、俳号米元元作がいた。この先輩は、いま裁判官になっている。私は、この米元先輩の夏の帰省のさい、相生の実家から、堺市の八木三日女邸にお邪魔した。何度かお邪魔したと思う。八木三日女主宰の俳誌「花」にも、一時期所属させてもらった。
花発行所は、八木三日女が医者下山ミチ子として働く下山眼科にあった。
また、次男の志波響太郎は、この全句集の解説を書いているが、一歳年上の彼とも、東大学生俳句会で出会った。米元先輩の弟ではなく、友人として、彼は最初のうち振舞っていたが、すぐ弟と知れることになった。この兄弟が見せた、育ちのいい青年のいたずら心は、母親の八木三日女譲りの性格だろう。
彼ら兄弟が住んでいた目白の家にも、泊まりがけで何度も遊びにいった。朝日が強く差して暑い、あの小さな木造家屋は残っているだろうか。
彼らの母である八木三日女の人柄を、こう言っておきたい。眼科医でもある八木三日女は、やさしさと厳しさ、そして批評精神を具えた女性だと。
まず、処女句集『紅茸』を読む。私は、初版の現物ではなく、そのコピーを持っている。
昭和31年(1956年)5月1日発行、著者八木三日女、発行所梟の会 堺市綾之町七番地、76ページ、定価百八拾円。
古い肉太の活版印刷の文字が、コピーであっても存在感を示す。
きらめきて高きに迷ふ散りいてふ
冒頭近くのこの秀句が目に付く。高度な抒情性、そして一句の音の伸びやかさ、また鋭い洞察力、きらびやかなエロスなど、申し分のない初期の代表句。こういう句を、一生の間、一句も書けない俳句マニアが大多数だが、八木三日女はそうではない。
小鳥の森昇天といふことがある
これもまた、八木三日女の洞察力を示す秀句。きれいごとだけですまさず、この世の生死の両面をとらえていて、とくに「昇天」とうことばが、ういういしく新鮮だ。
ちなみに、私の高校生時代の句に、
降る雪を仰げば昇天する如し 夏石番矢初期句集『うなる川』
があり、俳誌「天狼」の山口誓子選を受けているので、「昇天」は、新興俳句のモダニズムのもたらした語彙かもしれない。
謎めいた感覚が、次のオノマトペを駆使した1句を支配している。
しひらしひらクローバよりも白き幸
幸福であること、それを享受しながら、批評的に突き放して見ている。
『紅茸』の特徴は、ういういしい抒情性と鋭い批評性が、かろやかに融合していることだ。
福寿草咲いてもわたしは嫁きませぬ
交みゐし燕の顔の裏表
入道雲もくもくと吐く山を削ぐ
紅き茸礼讃しては蹴る女
初釜や友孕みわれ涜れゐて
例ふれば恥の赤色雛の段
死を忘れゐしが裸体の青きかな
傷を縫ひ菓子喰ひ雪を掬う手よ
苔の花々一つの罪を祝福す
女医臭ふ幾度び花火くゞりても
太陽を仰ぎては蝌蚪死にゆけり
秀句がこんなにも並んでいる。感性と知性を兼備した女でなければ詠めない句である。前衛歌人、塚本邦雄も、これらの句に注目していて、『百句燦燦』(1974年、講談社)に、「例ふれば」の句を選んで鑑賞している。この本の塚本はよかったし、輝いていたが、その後まもなく塚本は俳句を商売にしてしまった。
また、昨今ちょろちょろしている女流俳人たちは、八木三日女を少しは見習うといい。人の心にこびたり、くすぐったりする俳句ではなく、人の心を動かす俳句でなくては、消え去るだけだ。
また、女流俳人がもてはやされているのは、権力を持つ男に利用されているにすぎない。作品で勝負できる女流俳人がいま、何人いるのだろうか。
句集『紅茸』後半には、妻となり、母となった八木三日女の、たくましい成長がうかがえる句が登場する。
マリヤには遠し枯野に赤子置く
蛸を揉む力は夫に見せまじもの
股の間の産声芽木の闇へ伸び
流木に陽が降る母子来て坐せば
妻の座や夜の漆黒の海怖ろし
死の灰の天降れる雨に子を寝かす
灼けし鉄管のたうちまわ(ママ)ること知らず
ものごとの両面性や多面性を表現できる人が、俳句のみならず、すべての分野でほんものの光を放つ業績を残しうる。八木三日女の俳句は、そういう光を帯び始めている。
最後に挙げた「鉄管」の句は、ざわめきに満ちた第2句集『赤い地図』の展開を予告する1句である。
この記事へのコメント
Fujimi
三日女さん、アルツハイマーとか。
第3句集『落葉期』の記事を、またこのブログにアップします。